Dice&Dice、OVERCOATと出逢う。前編
2021.03.25 / INTERVIEW
NYを拠点とするブランド、OVERCOATのデザイナー、大丸隆平さんは福岡のご出身。そんな理由も手伝って、Dice&Diceはいつも大丸さんのことをなんだかNYにいる親戚かアニキのようにも慕っている。コロナ禍もあり、なかなか会えない“アニキ”ではあるが、このたび、ディレクター吉田雄一の声かけのもと、福岡とNYがオンラインで繋がった。NYでバイイングをサポートする市川暁子がモデレーターとなり、大丸さんを囲んでデジタル座談会を開催。今までメディアでは語られたことのなかった福岡時代の貴重なお話やクリエーションのコア、そしてDice&Dice別注のエコバック製作の裏話など、前編と後編2回にわたりお届けする。
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市川暁子(以下A) : 吉田さん、初めてOVERCOATのコレクションを見に大丸さんがやっていらっしゃる会社、oomaru seisakusho 2に行かれた時のこと、覚えてます?オフィスはチャイナタウンのキャナルストリートというNYでも雑多なエリアにあるウォークアップビルの2階にあって。
吉田雄一(以下Y) : 長年NY出張に行かせてもらってますが、こんなに衝撃を受けたことはなかったかも。暁子さんからは、すごいデザイナーがNYにいるって聞いていて、Diceでは取り扱ってないようなハイブランドともお仕事をされている方とは理解していたのですが、そういう事前情報ではなく、実際に商品を目の前にしたらとにかくパターンが素晴らしくて。着せていただいた時に「わ、なんだこの服すごいぞ!」というのが第一印象でしたね。
A : コレクションの見せ方もユニークですよね。オフィスに入るとまず大きな卓球台があって、それが商談テーブルになっている。そして大丸さんと、公私共にパートナーである(永澤)小百合さんがいつも2人で接客してくださって。ジェンダーも、そして体つきやサイズも全く違う2人が、同じサイズで同じデザインのコートを着ても、ぴったり身体に合うことを実演して見せてくれるパフォーマンスはまるで魔法のよう。
部屋の奥には製図台やミシンがずらっと並んでいて、スタッフの方々は反物のロールとか様々な資材に囲まれながら粛々とお仕事されていて。そんなアトリエで作られた、出来立てほやほやのコートがラックに掛かっている、そんな圧倒的な現場感にいつもワクワクします。
大丸隆平(以下O) : Dice&Diceさんといえば80年代から続く伝説的なセレクトショップなので、福岡出身の自分としては洋服を作り始めた時から憧れていました。何を買ったかは覚えてないけどコツコツ貯金してはDICEによく行っていて、そういうお店の方からOVERCOATを見たいと声をかけていただけたことがまず、本当に嬉しかったです。
A : 福岡時代、大丸さんがファッションに目覚めた頃ってどんなだったんですか?
O : ファッションが面白いと思い始めたのはたぶん16歳くらいかな。その頃Diceさんにも行ったし、ほかセレクトショップだとユナイテッドアローズさんの1号店とかもできた。古着ではアメカジブームの全盛期で、その後、ネオパンクみたいなのが出てきたりして。
Y : 当時、大丸さんはどんな格好をされてたんですか?
O : ピンクの軍ジャケとか着てましたね。やっぱりゼロから洋服を作るのが難しかったので、古着を解体したり改造したりしていました。お金もないので安い軍モノを買ってきて、あるときすごく強い、いわゆるおかんが使ってるハイターみたいな漂白剤を何本も使ってジャケットをバケツに漬けといたんですよ、どうなるのかなと思って。そしたら色がピンクぽくなった、それがすごく面白くて。さらにその上に絵を描いたり。
高校は進学校に入ったものの、なんだかそういうレールに乗るのが嫌になって退学しました。それで色々放蕩していた時期に服を作りたいな、と思い始めて。理由はあやふやで、まあ単純にモテたいとか人と違った格好がしたいとかというのもあると思うんですけど、ある日、紀伊国屋に行って本を買って洋服を作り始めたのが16歳の頃でした。今でも会社にありますけど、文化服装学院の男子服という本でした。
A : 最初から専門的な本だったんですね。
O : 当時はインターネットもないので文化服装学院のことすら知らなかったんですが。どこで勉強すればいいのかもわからなくて、独学で始めました。当時はファッションデザインという認識もなく、うちの家族からも大反対されていました。
O : 一人でやり始めたものの上手くは作れず、わからないことも沢山あったので、やっぱり勉強しないといけないな、と思い始めたころ、仲良くしていた古着屋さんから「近くに洋裁教室がある」と教えてもらったんです。当時60代だったと思うんですが、亡くなられた建築家の旦那さんが建てられた素敵な家で、細々と洋裁を近所の人たちに教えていた杉野さんという女性が先生でした。ほかの生徒さんはみんな主婦で、洋裁というよりはむしろ、お裁縫を習っていたような感じだったんですが、出逢った瞬間から杉野先生は「ようこそいらっしゃいました」と暖かく迎えてくださって。当時の僕といえば、赤く染めた坊主頭で、ピンクの軍ジャケに自分で作ったペイズリーのピタピタのパンツに地下足袋を履いてましたけれど。
A : そんな格好の若い男の子がいきなり家に来たら、普通はびっくりしますよね。でも優しく迎えてくださったんですね。
O : はい、彼女が本当にいい人で。宅配便の人にもおしぼりとお茶を出しちゃうくらい優しい人でした。当時僕は家にあんまり帰れないような感じの空気にもなってたので、晩御飯までご馳走になることもありましたね。それで週に1回とか通いながら、色々な基礎を習ううちに、東京に文化服装学院という学校があると、教えてもらったんです。
A : ファッションの道へ進む道筋を作ってくださったのが杉野先生だったんですね。
O : 自分にとっての最初のメンターは間違いなく彼女ですね。振り返ってみれば、僕の人生、ほとんど彼女の教えてくれた通りにやってきてるんだな、とも思います。その後、文化服装学院へ行ったこともそうだし、卒業するときも最初は自分で独立してブランドを作ろうと思ったんですが、彼女に「絶対にどこか就職した方がいい」って言われて。当時は僕もすごいクレイジーだったんで「そんなの興味ない」と断ったんっだけど、「1社でもいいから受けてみなさい」って言われて受けたんです。
A:それが日本で働いていらしたあの著名デザイナーの会社なんですね。その1社しか受けなかったというのもすごいですよね。
O : 自分は学校にもあまり行ってなかったから先生たちにも嫌われていたし、成績も悪かったからまず受かるわけないな、と思っていたんです。それでも一応、履歴書と作品を送ったところ、何故かだんだん受かって行って。選考過程はだいたい1年くらいもかかるのですが、1次選考、2次選考って通過するたびに先生にも電話で報告していたんです。
A : だいたい何人くらい受けて何人くらい採用されるものなんですか?
O : おそらく何千人も受けるんじゃないでしょうか。デザイン部門の採用枠は毎年1-2名だと思います。それで僕は結局最終面接の3、4人にまで残って、デザイナーご本人と面談しました。その夜、「これで終わったな......」と思いつつ、杉野先生に報告の電話をしたんです。そうしたら先生が何故か僕に「おめでとう」っておっしゃるんですよね。僕は「まだ受かったわけじゃないから、おめでとうは早いですよ」と言ったら、先生から「いえ、今日は本当におめでたいわ。私にとって合否はどうでもいいこと、これまであなたは何も継続してやることができなかったけれど、今回はようやく最後までやり遂げることができたんだから、それが何よりも嬉しいの」とおっしゃっていただいたんです。
最終面接の後1-2週間で返事があるのかと思いきや、2ヶ月っ経っても何の音沙汰もなかったので、これは落ちたな、と思いました。きっと先生も心配しているだろうから一応報告だけはしておこう、と思ってある日電話をしたんです。彼女は一人暮らしなのですが、その日は何故か京都にいるはずの息子さんが出られて「母は今、電話に出られない」と。それで一旦電話は切ったのですが、その10分後くらいにまた折り返し電話がかかってきて、息子さんから「実は母はガンで亡くなったんです」と知らされました。
それを聞いて、僕は人生で初めて泣きました。ご病気のことは自分は全く知らされていなくて、2ヶ月前まで普通に話していた先生が急にいなくなってしまったことにパニックにもなってしまったんです。とりあえず早く福岡に帰らなきゃ、と思い、当時の自分には高かったけど航空券を買ってお葬式に駆けつけました。そうしたら、ご親戚から病院の先生から、みんな僕のことを知ってるんですよね。
Y : 先生が大丸さんのことをみなさんに話されていたんでしょうね。
O : そうなんです。会う人会う人から「君が大丸くんか」って言われて。僕は亡くなった先生しか知らないお葬式で、ほかの全員が僕のことを知ってるって不思議ですよね。「君のこと、息子みたいに話してたよ」って皆さんに言っていただきました。そして葬儀の1ヶ月後くらいに、合格通知が届いたんです。僕としては先生がそのことを知らずに亡くなったのが、とても心残りなんですが。
A : でも、もしかしたら先生は大丸さんが合格することを見抜いていらしたかもしれない。亡くなる前に大丸さんの頑張りに対して「おめでとう」と言ってあげられたことは、先生にとっては本当に幸せな瞬間だったと思います。
O : そうですね。そういう意味では真摯に物事に向き合い、継続していくということがやっぱり大切なんだということを教えていただきました。ファッション業界ってトリッキーなところもあるし、単純に金儲けしようと思ったら全然この方法じゃない、と思う部分もあるんですよね。でも自分が今、この業界に惹かれ、ものづくりを続けている原点には、あの最後の電話で先生に褒めていただいた、ということがあるのかもな、とも思います。
O : その後、無事就職し、会社の中でも、もっとも忙しい部隊でコレクション作りに没頭していました。本当に休みもなくて、先生のお墓詣りにもいけないくらいだったんです。それで会社を退職してから、ようやく行くことが叶いました。
先生のお墓は瀬戸内海の大三島という場所にあるんですが、そこにはしまなみ海道っていう自転車で走るにはとても綺麗なルートがあるので、時間もあるし自転車で行ってみることにしたんです。ライフっていうスーパーで7900円ぐらいのママチャリを買って。それで246をまっすぐ行って御殿場から1号線に入って......。
A : すごいですね、自転車で東京から先生のお墓詣りに! 到着まで何日くらいかかったんですか?
O : ママチャリだとゆっくりめで1日70kmぐらい、めっちゃ頑張って120kmぐらい進めるんです。多分大三島まで1000kmぐらいはあるから10日から2週間はかかったと思います。あくまでも感覚値なんですけど。その後、福岡の実家に立ち寄ったら、親にはめっちゃビビられましたけどね。
A : 自転車で息子が帰ってきたら驚きますよね(笑)。
O : めちゃくちゃ日焼けして真っ黒だったのでびっくりするだろうなとは思ったのですが。僕が自転車で突然現れたとき、たまたま親は庭で水やりをしていたのですが、全く認識されなくてものすごく深い会釈をされました(笑)。
Y&A : (爆笑)
Y : その自転車にもまたその後のエピソードがあるんですよね。
O : はい。その自転車、防犯登録のナンバーがたまたま0729だったんですよ。僕そんなにロマンチストでもないけど、自分の誕生日が7月29日で、すごくないですか。なので、何度も捨てようかと思ったんですけど、愛着があって。お墓詣りのあとは結局、東京の家に戻って、そこから色々話が急展開になってNYに行くことになるんですが、とりあえずそのアパートの駐輪場に置いたまま来ることになっちゃって。
その後、ビザが取れないとか色々また違うトラブルに巻き込まれて、そうこうしてるうちに自転車のことなんか忘れちゃってたんです。でも、去年くらいに、たまたま当時のアパートの近くを通ったんで、自転車どうなったかな、と思い出して見に行ってみたらその駐輪場にまだあったんですよ。
Y : 僕、大丸さんに「東京に行った時もしも近くに立ち寄ったら、あるかどうか見てきてくれませんか」ってお願いされましたよね(笑)。
A : 何年くらい放置されてたんですか?
O : 15年くらいですかね。でも、すごいですよね、普通べたんとか倒れちゃったりしてるじゃないですか。でもそういうこともなく。
A : たった今、とめました、みたいな感じで?
O : はい。埃かぶってましたけど、まだまだやる気満々な自転車でした。それでやっと持って帰りました。1年くらい前のことですね。今は、東京のオフィスの入口に置いてあるんですけど、ボロボロなので誰か修理してくれる人がいたらいいなあ、って思ってます。
A : それずっと取っておいた方がいいですよ。OVERCOATの展覧会とかもし将来あるとしたら飾らないと!
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大丸隆平
福岡県出身。文化服装学院卒業後、日本を代表するメゾンブランドにパタンナーとして勤務。2006年、某ニューヨークブランドにスカウトされ渡米。2008年、ニューヨークのマンハッタンにデザイン企画会社「oomaru seisakusho 2」を設立。名前の由来は実家のやっていた家具工場で、モノ創りをベースにファッションにおける新しいステータスをクリエートするという理念のもと立ち上げた。スタッフは全員日本人で構成し、MADE IN JAPANの創造力、品質を世界に発信し続けている。現在も数多くのクリエーターに企画デザイン、パターン製作、サンプル縫製サービスを提供する。2015年秋冬シーズンより、ブランド「OVERCOAT」をスタート。2016年、「大丸製作所3」を東京・神宮前に設立する。
(受賞歴等)
2014年 第2回 CFDA FASHION MANUFACTURING INITIATIVE
2015年 第33回 毎日ファッション大賞 鯨岡阿美子賞を連続で受賞
OVERCOAT
OVERCOATは「Wearing New York(ニューヨークを着る)」をブランドの原点とし、デザイナーの大丸隆平がスタートしたブランド。設立当初は、THE GREATEST OVERCOATS PROJECT by oomaru seisakusho 2という名で、コートのみのブランドとしてユニセックスによる展開をしていた。数シーズンを経て、現在では、ジャケット、パンツ、シャツ、スカーフ等トータルルックを製作するようになっている。ニューヨークの「oomaru seisakusho 2」ではアポイント制でカスタムオーダーにも対応している。パターンの特徴は、ショルダーラインに工夫を凝らしているところ。プレタポルテでありながら、まるでオートクチュールのように、着る人にフィットする美しいシルエットを築く。サイズ・ジェンダー・エイジを問わないボーダレスなデザインを提案している。素材は、シーズンによって世界最高品質を誇るメーカーと共同開発で製作。古い制服や軍服として使われていたものを復刻したり、ユニークな後加工を施したりすることで、つねにアップデートされたものを提案している。
市川暁子
NYを拠点にファッション、デザイン、アート分野のブランディングおよびコンサルティング業務を手掛ける。ニューヨークコレクションのリビューは20年以上続けており、新聞雑誌媒体の編集や執筆活動も。
吉田雄一
Dice&Diceディレクター。19歳、アルバイトから働き始める。勤続20年を超える最古参スタッフで現在はブランドとの商品企画からショップディレクション、イベントキュレーション等まで、活動は多岐に渡る。
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カオスなチャイナタウンのアトリエにて、魔法のようなパターンのコートを試着。
市川暁子(以下A) : 吉田さん、初めてOVERCOATのコレクションを見に大丸さんがやっていらっしゃる会社、oomaru seisakusho 2に行かれた時のこと、覚えてます?オフィスはチャイナタウンのキャナルストリートというNYでも雑多なエリアにあるウォークアップビルの2階にあって。
吉田雄一(以下Y) : 長年NY出張に行かせてもらってますが、こんなに衝撃を受けたことはなかったかも。暁子さんからは、すごいデザイナーがNYにいるって聞いていて、Diceでは取り扱ってないようなハイブランドともお仕事をされている方とは理解していたのですが、そういう事前情報ではなく、実際に商品を目の前にしたらとにかくパターンが素晴らしくて。着せていただいた時に「わ、なんだこの服すごいぞ!」というのが第一印象でしたね。
A : コレクションの見せ方もユニークですよね。オフィスに入るとまず大きな卓球台があって、それが商談テーブルになっている。そして大丸さんと、公私共にパートナーである(永澤)小百合さんがいつも2人で接客してくださって。ジェンダーも、そして体つきやサイズも全く違う2人が、同じサイズで同じデザインのコートを着ても、ぴったり身体に合うことを実演して見せてくれるパフォーマンスはまるで魔法のよう。
部屋の奥には製図台やミシンがずらっと並んでいて、スタッフの方々は反物のロールとか様々な資材に囲まれながら粛々とお仕事されていて。そんなアトリエで作られた、出来立てほやほやのコートがラックに掛かっている、そんな圧倒的な現場感にいつもワクワクします。
大丸隆平(以下O) : Dice&Diceさんといえば80年代から続く伝説的なセレクトショップなので、福岡出身の自分としては洋服を作り始めた時から憧れていました。何を買ったかは覚えてないけどコツコツ貯金してはDICEによく行っていて、そういうお店の方からOVERCOATを見たいと声をかけていただけたことがまず、本当に嬉しかったです。
大丸隆平、16歳。福岡でファッションに目覚める。
A : 福岡時代、大丸さんがファッションに目覚めた頃ってどんなだったんですか?
O : ファッションが面白いと思い始めたのはたぶん16歳くらいかな。その頃Diceさんにも行ったし、ほかセレクトショップだとユナイテッドアローズさんの1号店とかもできた。古着ではアメカジブームの全盛期で、その後、ネオパンクみたいなのが出てきたりして。
Y : 当時、大丸さんはどんな格好をされてたんですか?
O : ピンクの軍ジャケとか着てましたね。やっぱりゼロから洋服を作るのが難しかったので、古着を解体したり改造したりしていました。お金もないので安い軍モノを買ってきて、あるときすごく強い、いわゆるおかんが使ってるハイターみたいな漂白剤を何本も使ってジャケットをバケツに漬けといたんですよ、どうなるのかなと思って。そしたら色がピンクぽくなった、それがすごく面白くて。さらにその上に絵を描いたり。
高校は進学校に入ったものの、なんだかそういうレールに乗るのが嫌になって退学しました。それで色々放蕩していた時期に服を作りたいな、と思い始めて。理由はあやふやで、まあ単純にモテたいとか人と違った格好がしたいとかというのもあると思うんですけど、ある日、紀伊国屋に行って本を買って洋服を作り始めたのが16歳の頃でした。今でも会社にありますけど、文化服装学院の男子服という本でした。
A : 最初から専門的な本だったんですね。
O : 当時はインターネットもないので文化服装学院のことすら知らなかったんですが。どこで勉強すればいいのかもわからなくて、独学で始めました。当時はファッションデザインという認識もなく、うちの家族からも大反対されていました。
人生のメンター、杉野先生との出逢い。
O : 一人でやり始めたものの上手くは作れず、わからないことも沢山あったので、やっぱり勉強しないといけないな、と思い始めたころ、仲良くしていた古着屋さんから「近くに洋裁教室がある」と教えてもらったんです。当時60代だったと思うんですが、亡くなられた建築家の旦那さんが建てられた素敵な家で、細々と洋裁を近所の人たちに教えていた杉野さんという女性が先生でした。ほかの生徒さんはみんな主婦で、洋裁というよりはむしろ、お裁縫を習っていたような感じだったんですが、出逢った瞬間から杉野先生は「ようこそいらっしゃいました」と暖かく迎えてくださって。当時の僕といえば、赤く染めた坊主頭で、ピンクの軍ジャケに自分で作ったペイズリーのピタピタのパンツに地下足袋を履いてましたけれど。
A : そんな格好の若い男の子がいきなり家に来たら、普通はびっくりしますよね。でも優しく迎えてくださったんですね。
O : はい、彼女が本当にいい人で。宅配便の人にもおしぼりとお茶を出しちゃうくらい優しい人でした。当時僕は家にあんまり帰れないような感じの空気にもなってたので、晩御飯までご馳走になることもありましたね。それで週に1回とか通いながら、色々な基礎を習ううちに、東京に文化服装学院という学校があると、教えてもらったんです。
A : ファッションの道へ進む道筋を作ってくださったのが杉野先生だったんですね。
O : 自分にとっての最初のメンターは間違いなく彼女ですね。振り返ってみれば、僕の人生、ほとんど彼女の教えてくれた通りにやってきてるんだな、とも思います。その後、文化服装学院へ行ったこともそうだし、卒業するときも最初は自分で独立してブランドを作ろうと思ったんですが、彼女に「絶対にどこか就職した方がいい」って言われて。当時は僕もすごいクレイジーだったんで「そんなの興味ない」と断ったんっだけど、「1社でもいいから受けてみなさい」って言われて受けたんです。
A:それが日本で働いていらしたあの著名デザイナーの会社なんですね。その1社しか受けなかったというのもすごいですよね。
O : 自分は学校にもあまり行ってなかったから先生たちにも嫌われていたし、成績も悪かったからまず受かるわけないな、と思っていたんです。それでも一応、履歴書と作品を送ったところ、何故かだんだん受かって行って。選考過程はだいたい1年くらいもかかるのですが、1次選考、2次選考って通過するたびに先生にも電話で報告していたんです。
最終面接直後にいただいた「おめでとう」の意味。
A : だいたい何人くらい受けて何人くらい採用されるものなんですか?
O : おそらく何千人も受けるんじゃないでしょうか。デザイン部門の採用枠は毎年1-2名だと思います。それで僕は結局最終面接の3、4人にまで残って、デザイナーご本人と面談しました。その夜、「これで終わったな......」と思いつつ、杉野先生に報告の電話をしたんです。そうしたら先生が何故か僕に「おめでとう」っておっしゃるんですよね。僕は「まだ受かったわけじゃないから、おめでとうは早いですよ」と言ったら、先生から「いえ、今日は本当におめでたいわ。私にとって合否はどうでもいいこと、これまであなたは何も継続してやることができなかったけれど、今回はようやく最後までやり遂げることができたんだから、それが何よりも嬉しいの」とおっしゃっていただいたんです。
最終面接の後1-2週間で返事があるのかと思いきや、2ヶ月っ経っても何の音沙汰もなかったので、これは落ちたな、と思いました。きっと先生も心配しているだろうから一応報告だけはしておこう、と思ってある日電話をしたんです。彼女は一人暮らしなのですが、その日は何故か京都にいるはずの息子さんが出られて「母は今、電話に出られない」と。それで一旦電話は切ったのですが、その10分後くらいにまた折り返し電話がかかってきて、息子さんから「実は母はガンで亡くなったんです」と知らされました。
それを聞いて、僕は人生で初めて泣きました。ご病気のことは自分は全く知らされていなくて、2ヶ月前まで普通に話していた先生が急にいなくなってしまったことにパニックにもなってしまったんです。とりあえず早く福岡に帰らなきゃ、と思い、当時の自分には高かったけど航空券を買ってお葬式に駆けつけました。そうしたら、ご親戚から病院の先生から、みんな僕のことを知ってるんですよね。
Y : 先生が大丸さんのことをみなさんに話されていたんでしょうね。
O : そうなんです。会う人会う人から「君が大丸くんか」って言われて。僕は亡くなった先生しか知らないお葬式で、ほかの全員が僕のことを知ってるって不思議ですよね。「君のこと、息子みたいに話してたよ」って皆さんに言っていただきました。そして葬儀の1ヶ月後くらいに、合格通知が届いたんです。僕としては先生がそのことを知らずに亡くなったのが、とても心残りなんですが。
A : でも、もしかしたら先生は大丸さんが合格することを見抜いていらしたかもしれない。亡くなる前に大丸さんの頑張りに対して「おめでとう」と言ってあげられたことは、先生にとっては本当に幸せな瞬間だったと思います。
O : そうですね。そういう意味では真摯に物事に向き合い、継続していくということがやっぱり大切なんだということを教えていただきました。ファッション業界ってトリッキーなところもあるし、単純に金儲けしようと思ったら全然この方法じゃない、と思う部分もあるんですよね。でも自分が今、この業界に惹かれ、ものづくりを続けている原点には、あの最後の電話で先生に褒めていただいた、ということがあるのかもな、とも思います。
ママチャリで日本列島横断、しまなみ街道を行く。
O : その後、無事就職し、会社の中でも、もっとも忙しい部隊でコレクション作りに没頭していました。本当に休みもなくて、先生のお墓詣りにもいけないくらいだったんです。それで会社を退職してから、ようやく行くことが叶いました。
先生のお墓は瀬戸内海の大三島という場所にあるんですが、そこにはしまなみ海道っていう自転車で走るにはとても綺麗なルートがあるので、時間もあるし自転車で行ってみることにしたんです。ライフっていうスーパーで7900円ぐらいのママチャリを買って。それで246をまっすぐ行って御殿場から1号線に入って......。
A : すごいですね、自転車で東京から先生のお墓詣りに! 到着まで何日くらいかかったんですか?
O : ママチャリだとゆっくりめで1日70kmぐらい、めっちゃ頑張って120kmぐらい進めるんです。多分大三島まで1000kmぐらいはあるから10日から2週間はかかったと思います。あくまでも感覚値なんですけど。その後、福岡の実家に立ち寄ったら、親にはめっちゃビビられましたけどね。
A : 自転車で息子が帰ってきたら驚きますよね(笑)。
O : めちゃくちゃ日焼けして真っ黒だったのでびっくりするだろうなとは思ったのですが。僕が自転車で突然現れたとき、たまたま親は庭で水やりをしていたのですが、全く認識されなくてものすごく深い会釈をされました(笑)。
Y&A : (爆笑)
Y : その自転車にもまたその後のエピソードがあるんですよね。
O : はい。その自転車、防犯登録のナンバーがたまたま0729だったんですよ。僕そんなにロマンチストでもないけど、自分の誕生日が7月29日で、すごくないですか。なので、何度も捨てようかと思ったんですけど、愛着があって。お墓詣りのあとは結局、東京の家に戻って、そこから色々話が急展開になってNYに行くことになるんですが、とりあえずそのアパートの駐輪場に置いたまま来ることになっちゃって。
その後、ビザが取れないとか色々また違うトラブルに巻き込まれて、そうこうしてるうちに自転車のことなんか忘れちゃってたんです。でも、去年くらいに、たまたま当時のアパートの近くを通ったんで、自転車どうなったかな、と思い出して見に行ってみたらその駐輪場にまだあったんですよ。
Y : 僕、大丸さんに「東京に行った時もしも近くに立ち寄ったら、あるかどうか見てきてくれませんか」ってお願いされましたよね(笑)。
A : 何年くらい放置されてたんですか?
O : 15年くらいですかね。でも、すごいですよね、普通べたんとか倒れちゃったりしてるじゃないですか。でもそういうこともなく。
A : たった今、とめました、みたいな感じで?
O : はい。埃かぶってましたけど、まだまだやる気満々な自転車でした。それでやっと持って帰りました。1年くらい前のことですね。今は、東京のオフィスの入口に置いてあるんですけど、ボロボロなので誰か修理してくれる人がいたらいいなあ、って思ってます。
A : それずっと取っておいた方がいいですよ。OVERCOATの展覧会とかもし将来あるとしたら飾らないと!
後編はこちら
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大丸隆平
福岡県出身。文化服装学院卒業後、日本を代表するメゾンブランドにパタンナーとして勤務。2006年、某ニューヨークブランドにスカウトされ渡米。2008年、ニューヨークのマンハッタンにデザイン企画会社「oomaru seisakusho 2」を設立。名前の由来は実家のやっていた家具工場で、モノ創りをベースにファッションにおける新しいステータスをクリエートするという理念のもと立ち上げた。スタッフは全員日本人で構成し、MADE IN JAPANの創造力、品質を世界に発信し続けている。現在も数多くのクリエーターに企画デザイン、パターン製作、サンプル縫製サービスを提供する。2015年秋冬シーズンより、ブランド「OVERCOAT」をスタート。2016年、「大丸製作所3」を東京・神宮前に設立する。
(受賞歴等)
2014年 第2回 CFDA FASHION MANUFACTURING INITIATIVE
2015年 第33回 毎日ファッション大賞 鯨岡阿美子賞を連続で受賞
OVERCOAT
OVERCOATは「Wearing New York(ニューヨークを着る)」をブランドの原点とし、デザイナーの大丸隆平がスタートしたブランド。設立当初は、THE GREATEST OVERCOATS PROJECT by oomaru seisakusho 2という名で、コートのみのブランドとしてユニセックスによる展開をしていた。数シーズンを経て、現在では、ジャケット、パンツ、シャツ、スカーフ等トータルルックを製作するようになっている。ニューヨークの「oomaru seisakusho 2」ではアポイント制でカスタムオーダーにも対応している。パターンの特徴は、ショルダーラインに工夫を凝らしているところ。プレタポルテでありながら、まるでオートクチュールのように、着る人にフィットする美しいシルエットを築く。サイズ・ジェンダー・エイジを問わないボーダレスなデザインを提案している。素材は、シーズンによって世界最高品質を誇るメーカーと共同開発で製作。古い制服や軍服として使われていたものを復刻したり、ユニークな後加工を施したりすることで、つねにアップデートされたものを提案している。
市川暁子
NYを拠点にファッション、デザイン、アート分野のブランディングおよびコンサルティング業務を手掛ける。ニューヨークコレクションのリビューは20年以上続けており、新聞雑誌媒体の編集や執筆活動も。
吉田雄一
Dice&Diceディレクター。19歳、アルバイトから働き始める。勤続20年を超える最古参スタッフで現在はブランドとの商品企画からショップディレクション、イベントキュレーション等まで、活動は多岐に渡る。